日本における宣教バプテストのはじまり

 第二次世界大戦中の昭和18年(1943年)7月29日、日本海軍は木村昌福中将を司令官として、約3万5千人のアメリカ・カナダ軍によって完全包囲されていた太平洋北部のアリューシャン列島の米国領キスカ島から日本軍の守備隊約5200人を無血救出しました。その2ヶ月前の5月29日には、隣り合わせのアッツ島で約11000人の米軍によって約2500人以上の日本兵が玉砕したのです。

 

 太平洋戦争中に多くの激戦地で日本軍と戦ったアメリカ軍の中に、ユージン・M・レーガン大尉がいました。彼はアッツ島でも参戦していました。ある日、戦いの最中に一人の日本兵が両手を上げて坂を下りて来ました。そしてその途中で足を滑らし、尻もちをついてしまいました。すぐさま立ち上がり、手についた泥をズボンの尻で拭い取ろうとした時、レーガン大尉の援護兵がピストルを抜くものと勘違いして射殺してしまったのです。死亡した兵士の身体検査をしたところピストルは発見されず、彼のポケットから一冊の本が発見されました。それは新約聖書でした。

 

 その後、レーガン大尉は3~5ヶ月にわたる激しい沖縄戦の組織的戦闘が終結したとされている1945年6月23日まで軍籍にありましたが(その後も沖縄本島や近隣の島々では局地的な戦闘が続けられ、南西諸島守備軍代表が降伏文書に調印したのは9月7日のこと)、1945年8月6日に広島、9日の長崎への原爆投下がなされ、8月15日に日本と連合軍がアメリカの戦艦ミズリー号上で無条件の降伏文書への調印をして終戦となりました。レーガン大尉は日本本土の占領軍の一員に加わる事を志願しましたが、医師から心臓病との診断を受けて除隊することになりました。

 

 退役後、彼はテキサス州のヒルズボローに帰郷し、兄のロイス・レーガンが執事をしていた市内のウォルナットストリート・宣教バプテスト教会に出席するようになりました。彼はずっと、アッツ島で新約聖書を隠し持っていた日本兵のことを忘れられずにいました。そしてついに、かつて日本軍と戦った自分を捨て、キリストの福音によって日本人を救いに導く務めを果たす者になる決心をしたのです。1952年、主の働きに説教者として通っていたアーカンソー州リトルロック市にあるミッショナリー・バプテスト・セミナリー(神学校)の水曜チャペル礼拝の席上で、福音宣教のために日本に行くと宣言しました。

 

 同年、レーガン先生はテキサス州ヒルズボローのウォルナットストリート・バプテスト教会の宣教師として日本に送り出されることになり、援助応援を受けるためにアメリカン・バプテスト連合の諸教会に推薦され、1952年9月2日に横浜港に到着しました。

 

 レーガン宣教師の日本での活動は2年にも満たないものでしたが、滞在期間中は日曜日の朝と夜、月曜日、水曜日、金曜日の夜に休むことなく集会活動を続けました。そして、ご一家の来日から1年後の1953年9月6日、レーガン宣教師は多くの姉妹教会の祈りと援助に支えられ、6人の会員で新契約バプテスト教会の組織に踏み切りました。レーガン宣教師は滞日中に16人にバプテスマを授けました(そのうち5人が女性)が、ドクターストップがかかったため、1954年8月20日に帰国の途に就きました。

 

 天地は主なる神によって創造されました。

   「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1章1節)。

 同じ主が教会の創造者でもありました。

   「そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」

                       (マタイによる福音書16章18節)                 

 古代から近代に到るまで、人類は第一次、第二次世界大戦など、死と破壊の匂いを嗅ぐという恐ろしい経験を重ねてきました。しかし、そのような最悪の事態の中にも、主はいつも生きて働いていて下さったのです。それは、私たちがもれなくキリストの福音を聴き、その恵により、主イェスの教会の一員に加えられる機会が与えられるためでした。私たちは主から賜ったこの恵みを、一人でも多くの人達と時空を超えて分かち合っていくべきではないでしょうか。私たちの先輩、先達を模範として。

 

◆「継ぐとは創ると同じくらい重い仕事である」 

 (2009年10月25日・朝日新聞天声人語欄より)

   執筆・文責:河原陸夫牧師、金生谷繁雄牧師(故人)                     

(「日本バプテスト連合五十年史」5頁~7頁より転載)

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