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日本バプテスト連合発足(初期)

(1) 日本バプテスト連合(JBA)創立まで

 今から約2000年前の主イエス御来臨の目的は、ルカがその福音書に記録しているとおりです。「 人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。(19章10節)主がこの偉大かつ壮大なご計画を実行されるに当たり、この救いに与って御自分の弟子となった人達を、お集めになって教会を建て上げることでした。

 

 主がガリラヤ湖周辺で心血を注ぎ、その手足をもって創設なさった教会はたった一つでした。十字架の死と埋葬、復活を経験なさった後、主はこの教会に「大宣教命令」をお与えになり、全人類にキリストによる救いの機会が分かち合われるようにして下さいました。ローマ帝国の片隅に集合していた小さな群れは、主イエスの復活、昇天を見送った後にもなお、このお方が彼らと共に生きて働いておられる事を体験し続けるのでした。主イエスの復活、昇天の目撃者であった愛弟子たちの中で「使徒」として主に任命された指導者の下、主の教会は数々の困難と迫害を受けながらもその使命を果たしていきました。多くの失われた人々が主イエスの福音と証しに触れ、その救いに与ってバプテスマを受け、主の群れなる教会に加わって御用に参画する者となりました。

 主の最初の教会(やがてエルサレム教会と呼ばれるようになります)による宣教活動を通してローマ帝国の各地に救われる人々が次々に起こされるようになると、その為に主の教会が主のご計画に従ってすべきことは明らかになってきました。各地に散在する神の子達を呼び集め、それぞれの地域に自分たちと同じ主の教えを守り(聖書信仰)それを実践しつつ宣教する主の教会を建て上げていくことでした。主の最初の教会がキリストの福音宣教をする中で腐心したのは、やがて自分たちの手に負えなくなるに違いないローマ帝国、及び世界各地での宣教活動を引き継げる教会建設を物心両面で支援することでした。主の最初の教会がこの働きをする中で、この教会と各地に新たに建て上げられた次代の諸教会の間には多くのことが共有され、分かち合われたものがありました。それが「主の御用に於ける諸教会の交わり」であり、現代に生きる私たちが意味するところの「連合の交わり」です。エルサレム教会とその働きから生まれたアンテオケ教会の間にはかなり密接な交わりがあったようです。しかし、両者はいずれも主イエスを頭とする独立自治の地域教会でしたから、支配関係や上下関係等とは全く無縁な交わりをなし、互いに助け合って主の御用に邁進していたことは新約聖書の記録とその教え全体から明らかです。

 日本に於ける宣教バプテスト教会の設立は新契約バプテスト教会が最初です。世界中が貧しかった時代のただ中にあって、米国テキサス州のヒルスボローにあったウオルナットストリート・宣教バプテスト教会からユージン・M・レーガン宣教師ご夫妻が、アメリカン・バプテスト連合諸教会の支援を受け、派遣されて来ました。1952(昭和27)年のことです。

 1953(昭和28)年9月6日に6名の会員をもって新契約バプテスト教会が設立され、レーガン師は翌年(1954年)8月20日、健康上の理由から帰国を余儀なくされました。

 

 新契約バプテスト教会を母教会として柏の第一宣教バプテスト教会(初代牧師・天利操)が組織され、柏教会によって沼津宣教バプテスト教会(初代牧師・板倉信吾)が組織されました。アメリカ留学を終えてから、アーカンソー州リトルロック市のアンテオケ宣教バプテスト教会によって送り出された金生谷繁雄宣教師の働きの下、横浜ミショナリー・バプテスト教会が組織されました。今回、この記念誌が出版され、これらの事が記録されることになったのは本当に良かったと思います。特に私が皆さんに注目して欲しいことは、上記の四教会が互いに助け合って各個教会の建設、建徳に尽力する目的のために「日本バプテスト連合」を正式に組織することに同意し、新契約バプテスト教会を会場としてそれが実現したという歴史的事実です。1964年11月3日が、その記念すべき時でした。

 

 あれから50年の時が過ぎて現在に至っています。2013年4月現在、日本バプテスト連合の交わりには18の教会と伝道所が交わりを持っています。本連合が最初に採択した創立の目的を覚え、諸教会がそれに適った手段を通して互いの建設、建徳に協力するなら、主は今まで以上に多くの祝福と助けをお与え下さるでしょう。「主イエスよ、来たりませ」。

 河原陸夫(泉宣教バプテスト教会牧師)

(「日本バプテスト連合五十年史」10頁~12頁より転載)

Praying Together
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